2010年07月09日

【コラム】イスラエルにおけるsecurityとは何か

「Here is fucki’n conflict city.」
大学一年のとき、僕はエルサレムに2週間程滞在した。これはその時、馴染みになったレストランのジョンと言う店員が静かに呟いた言葉だ。当時、というか今でも、エルサレムの旧市街の中にはいつもイスラエル兵がいて、パレスチナ人を監視していた。少し離れた東エルサレムでは、パレスチナ人の故郷をブルドーザーが壊しながら、大規模な入植地が建設されていた。パレスチナ人であるジョンは、そんな風に壊されていく自分の故郷に胸を痛めていたに違いない。彼の一言には、とても切なくて、なんだか寂しい様な気持ちが凝縮されていた気がした。
イスラエルのパレスチナ人に対する振る舞いのひどさは有名だ。まるで人で無いようにパレスチナ人を扱う。分離壁とか言うとても大きい壁を作って、彼らを隔離する。市場のど真ん中に金属探知ゲートを設け、移動を制限する。モスクへの入場を制限・監視する、夜中に家をぶっ壊して、人を殺す。このような行動が、エルサレムだけではなくヨルダン川西岸地区やガザなどの占領地で日常的に行われているのである。僕自身もヨルダン川西岸地区を訪れた時、ヘブロンやジェニンに残る傷跡を目の当たりにした。そんな中で、イスラエルの行動にはただただ疑問を持たざるを得なかった。海外ではイスラエルを「抑圧者」と評す人も少なくはないのが頷ける。
抑圧者イスラエルの行動すべては、securityという言葉の名のもとに行われ、正統化されている。イスラエルのSecurityのためであれば彼らは何をしてもいいし、何かしても責任を逃れることが出来るのだ。たとえばパレスチナ人の少年を射殺したら、テロリストに見えたからと「security」のために射殺した、と言い訳すれば良い。このsecurityという言葉には、単なる「安全」という意味を超えた、別の意味が包含されているのである。それは、パレスチナ人に対する過度の不安や悪意、妄想に近い恨みをひとまとめにして、彼らを敵として見なすような「意味」だ。明らかにイスラエル主観で自己中心的なsecurityを抱きながら、イスラエルの占領政策は続いているのである。
イスラエルがこのsecurityを中心に物事を考えているうちは、二国家共存が成り立つことは絶対にないだろう。そもそもその考え方は間違えているし、それがパレスチナの恨みを呼び、問題をさらに複雑化させているのは明らかだ。本来Securityとは、ユダヤ人もパレスチナ人も関係なく、そこにいる「人」のための安全保障を示す言葉として使われるべきなのである。もちろん、両者の間で繰り広げられている争いは、単に言葉の意味付けだけで解決される様な単純な問題ではない。しかしそんな言い訳が出来るような逃げ道を用意しているようでは、問題を根本から解決することができるはずもないだろう。securityという言葉の意味に正面から向き合って、しっかりとそれを考え直す必要があるのではないだろうか。
泥沼と言われているその問題が解決しないなんてことは、絶対にない。何らかの小さなきっかけが、解決に繋がることだって十分にあり得る。ひとつの言葉の意味を見直すことから、おおきな平和が生まれる可能生は否定できない。いつの日か、パレスチナの首都となった東エルサレムで、笑顔で元気に暮らすジョンに会える日が来ればと、僕は切に願う。
posted by kota at 15:02| Comment(0) | TrackBack(0) | ジャーナリズム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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